マラソンの「壁」を科学する – 400万件のデータが明かす失速の正体

コラム

マラソンを走ったことのあるランナーなら、一度は「壁」という言葉を耳にしたことがあるだろう。30km過ぎから突然脚が動かなくなり、ペースが崩壊する、あの現象だ。「経験不足だから」「練習が足りなかったから」と片付けられがちだが、実際のところ、壁にぶつかるランナーはどのくらいいて、どんな条件で起きやすいのか、科学的に解明されているのだろうか。

2021年、アイルランド・ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンの研究者Barry Smythが、過去に類を見ない規模の分析結果を発表した。2005年から2019年にかけての400万件以上のマラソン記録を解析し、「壁にぶつかること(Hitting the Wall、以下HTW)」の発生頻度・性質・コストを体系的に明らかにしたのだ(*PLoS ONE*, 2021)。

本記事では、この研究の知見をサブ4前後のランナー視点で読み解いていく。

「壁」の定義――感覚ではなくデータで捉える

研究における「壁」の定義は明快だ。5〜20km区間の平均ペースを基準とし、25km以降の5km以上にわたる区間でペースが20%以上低下した状態をHTWと定義している。感覚的な「きつかった」ではなく、スプリットデータによる客観的な閾値だ。

これは決して甘い基準ではない。5km/minペース(サブ3.5相当)で走っていたランナーが、突然6km/min以上に落ち込み、それが5km以上続いた場合に初めて「壁にぶつかった」とカウントされる。

壁にぶつかるランナーはどのくらいいるか

結論から言えば、男性の約28%、女性の約17%がHTWを経験している。4人に1人以上の男性ランナーが、データ上「壁にぶつかった」レースを持っているわけだ。

注目すべきは、この割合が年齢グループや能力レベルにかかわらず比較的一定していることだ。「上手くなれば壁にぶつかりにくくなる」という単純な話ではない。

性別による違い――男性はなぜ壁にぶつかりやすいのか

今回の研究で最も明確に示された差が、性別による差だ。以下に主要な指標を整理する。

指標男性女性
HTW発生率28%17%
失速開始地点29.6 km29.3 km
失速継続距離10.7 km9.6 km
相対的ペース低下率40%37%
平均タイムロス31.5分33.2分

女性ランナーはわずかに早く失速が始まるものの、男性と比べて短い距離で失速から回復し、フィニッシュ前にペースを取り戻す割合が高い。つまり男性は「より深く、より長く」沈む傾向がある。

研究者はこの差の主因として、男性がよりリスクの高いペース戦略を取りやすいことを挙げている。別の研究では、30%以上の急激なペース低下が起きる確率は男性の方が女性の3倍に達するという報告もある。「前半から飛ばしてしまう」傾向が、男性ランナーに顕著に現れているのだ。

年齢による違い――中高年は意外と壁にぶつかりにくい

年齢別の分析では、若いランナーほど壁にぶつかりやすく、中高年ランナー(特に40〜49歳の女性)は最もリスクが低いという結果が出ている。

「年齢とともに体力が落ちるから、壁にもぶつかりやすくなるのでは」という直感に反するこの結果は、経験の蓄積によるペース管理の精度向上を反映していると考えられる。30〜40代以上のランナーは、過去のレース経験から「飛ばしすぎると後半崩れる」という教訓を身体で理解しているのだろう。

ただし、年齢の影響は性別の影響と比べると小さく、男女差の方が支配的であることは変わらない。

自己ベスト前後の「魔の3年間」

この研究で最も興味深い発見のひとつが、自己ベスト(PB)の達成前後でHTWリスクが大きく変動することだ。

時期男性のHTW率女性のHTW率
PB前 9〜4年26%16%
PB前 3〜1年40%28%
PB後 1〜3年32%21%
PB後 4〜9年26%16%

PBを狙っている時期、ランナーは意識的・無意識的にリスクの高いペース設定を取る。「今日こそ出し切ろう」という心理が前半の突っ込みにつながり、後半の崩壊を招く。

PB達成直後の数年間もリスクが高止まりしていることは、「成功体験に引きずられ、次のレースでも無理なペース設定をしてしまう」心理を示唆している。逆に言えば、PBを更新してから数年後には、ランナーはより安定したペース管理に戻る傾向がある。

速いランナーほど「失うものが大きい」

HTWによるタイムロスは、能力の高い(速い)ランナーほど大きくなる。

これは直感に反するように思えるが、考えれば納得できる。速いランナーほど「出し切った」PBを持っているため、それを更新しようとするレースでのリスクは高く、失敗した際の損失も大きい。サブ3.5〜サブ4圏のランナーが壁にぶつかった際には、30分超のタイムロスも珍しくないのだ。

一方、遅めのランナーはPB自体が余裕を残して達成されている場合も多く、仮に後半乱れても損失が相対的に小さい。

壁を防ぐための実践的示唆

この研究はHTWの「なぜ」ではなく「誰が・いつ・どのくらい」にフォーカスしているが、データから導かれる実践的な示唆は明確だ。

1. 前半のペースが最大のリスク要因 研究者は「スタートが速すぎることは、後半の壁につながる最も重要な要因のひとつ」と述べている。5〜20km区間のペースが基準ペースになるわけで、ここを突っ込みすぎると後半の余力が消える。

2. PBを狙うレースほど慎重に PB前後の3年間はリスクが最大化する。自己ベスト更新を狙うレースほど、前半の入りを抑えるペース戦略が重要になる。

3. 男性ランナーは特に意識が必要 HTW発生率・失速の深さ・継続距離のすべてにおいて、男性は女性より不利な数字が出ている。「自分は大丈夫」という根拠のない自信が、データ上最も危険なパターンのひとつだ。

4. 年齢は味方になる 中高年ランナーのHTWリスクが低いのは、蓄積された経験の賜物だ。30〜40代以上で「後半が崩れにくくなった」と感じるなら、それは実力の証でもある。

おわりに

400万件のデータが示す「壁」の実態は、経験則を統計的に裏付けるものでもあり、意外な発見をもたらすものでもあった。壁にぶつかることは弱さの証明ではなく、多くのランナーが経験する現象だ。しかしその確率を下げ、コストを最小化することは、ペース戦略と知識によって十分にコントロール可能だとも言える。

次のレースで「どこまで前半を抑えるか」を考えるとき、このデータを頭の片隅に置いてみてほしい。


参考文献 Smyth, B. (2021). How recreational marathon runners hit the wall: A large-scale data analysis of late-race pacing collapse in the marathon. PLoS ONE, 16(5), e0251513. https://doi.org/10.1371/journal.pone.0251513